自宅新築日記

自宅の新築にまつわるあれこれを綴っていくつもりです。

住宅は「工業製品」であるべき-中編-

-前編から続く-

 

3.工学という学問が目指すもの

工学は自然科学を対象として扱う学問ですが、その目的は「人を幸せにすること」にあります。自然科学はあくまでも手段に過ぎないという位置づけです。
そして、ここがポイントなのですが、「なるべく多くの人を」、「なるべく大きく」、幸せにすることを目指します。

なるべく多くの人を幸せにするためには、なるべく多くの製品を作らねばなりません。また同時に、なるべく安価に作らねばなりません。
工業製品が大量生産やそれによる低コスト化を目指すことが多いのは、工学が目指しているこの方向性に起因しています。工業製品の性と言えるでしょう。逆に言うと、「世界に1つしかない一品モノ」は苦手です。

ところで、多くの製品を作るためには、大勢の人が必要です。1人で10個しか作れないモノを10万人に届けるには、1万人の人が必要です。
と言っても作り手が1万人もいると、上手い人と下手な人がどうしても出てくるため、ちゃんとしたモノが10万個作れるとは限らなくなります。それでは10万人を幸せに出来なくなるので困ります。そこで工学ではどうすれば誰でも同じように作ることが出来るのか?という課題にも取り組んでいます。ちょっと難しい言葉で「形式知化」と言います。

ちなみに、形式知の反対語は暗黙知です。
どちらも知識には違いありませんが、暗黙知は「言葉に出来ない(なっていない)知識」のこと。経験とか感覚によって何となく表現されるモノ、とでも言いましょうか。言葉に出来ないので、他人に伝えることが非常に難しい知識です。「ここで、きゅっとやってぐっとやるんだ」なんて言っても、1万人に同じ知識を伝えるのは至難の業でしょう。
形式知暗黙知の反対で、「言葉に出来る(なっている)知識」です。例えば、「1N・mのトルクで2回転回す」とか、「2.3Aの電流を5秒間流す」とか、「3番のやすりを使って、2kg重の力で10回削る」などです。これであれば、1万人に同じようにやってもらうことが出来そうです。

そうやって、それまで暗黙知としてベテランの経験の中にしかなかったテクニックを、誰もが実践可能な形式知に置き換えることをひたすらにやってきたのが、工業の歴史です。
かつて、俗に言う「職人さんの領分」とされてきた仕事のうち、かなりの部分が工業に取って代わられてしまいました。工業にはそれだけの力があったわけですが、その力の源が、この「形式知にしようとする努力」に他なりません。
これが工学という学問が目指す姿であり、工業という産業の姿であり、工業製品を支える屋台骨です。

ところで、「誰でも出来るようになると、ベテランは必要なくなる」かというと、全くそんなことはありません。マニュアルに従ってモノを作ることは誰にでも出来るようになったとしても、そのマニュアルを作るのは誰にでも出来ることではないからです。
技術を絶え間なく進歩させるためには、常に新しいマニュアルを作り続けなければいけません。その為にはベテランの存在が不可欠なのです。
ベテランが20年かけて到達した成果をマニュアル化することによって、新たにその道に入った後輩は10年で同じレベルに到達することが出来ます。その後輩は余った(?)10年で、先輩が到達できなかったレベルへと更に技術を進歩させることが出来ます。その成果を更にマニュアル化すれば、その更に後輩は‥‥。
こうして技術の継続的な発展は実現されています。「仕事は盗んで覚えろ」の職人の世界では、なかなかこうはいかないでしょう。

 

4.工業が職人に全くかなわない世界もある

何だか、「工業万歳! 職人の世界よさらば!」みたいなことを書きましたが、世の中そんなに単純ではありません。工業が逆立ちしても職人さんの足元にも及ばない世界が確かに存在します。
先に書いた通り、工業は一品モノが苦手です。その最たるものが、工芸品の世界でしょう。陶磁器や漆器、寄せ木細工など、工業製品として作られたモノも無くはないけど、ベテランの職人さんが作ったものとは比較にならないというのが一般的な見解です。
建築物だって、例えば伊勢神宮式年遷宮を工業的な考えで行えるかというと、真面目に検討するのもアホらしい。

こういう世界では、工業は経験を積んだ人間(つまり職人)の感性に全く歯が立ちません。ときに芸術面の要素が入り込んでくるとますますダメです。
ただ、世の中にはそうではない世界、つまり工業が得意とする領域がたくさんあるので、世の中ではでかい顔をしているわけです。

-後編に続く-