自宅新築日記

自宅の新築にまつわるあれこれを綴っていくつもりです。

家の作りやうは、冬をむねとすべし

家の中を快適な温熱環境に保つためには高断熱・高気密が必要だということは、さすがに定説になっているようです。理由はあちこちで多くの人が書かれているので、私などがくどくどと書くほどのことではないでしょう。あえて言えば、こちらのサイトが簡潔に纏まっています。特に、今の家で冬に寒い思いをしている身としては、とりわけ高断熱に期するところは大きいものがあります。

そんな目で各ハウスメーカの話を聞き、カタログを読んでいると、これはどうもなぁと思わずにはいられない表現が目に付きます。
曰く、

  • 通風や採光に配慮した設計にすることで、自然の力を採り入れ、空調に頼りすぎない家を実現します。
  • 兼好法師も「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と言っています。夏に涼しく過ごせることこそ家造りの基本です。

などなど。
「自然の力」を謳い、クーラーを「不自然」と思わせ、「昔の偉人」を引っ張り出して如何にも正しそうな雰囲気を醸し出すその様子は、カタログのコピーとしては非常に良くできています。「そうかも」とついつい思ってしまいそうな、静かな迫力に満ちています。

でも、一生懸命考えたコピーライターには悪いけど、冷静に考えるとちゃんちゃらおかしいです。
いや、言っていることを個々に捉えると、決して間違ってはいません。だからこそ「つい、同意したくなるオーラ」を漂わせています。そのオーラに飲まれないように注意しつつ、1つ1つを丁寧に考えてみれば、自ずと正解に近づくことができます。


ここでは、「住宅は室内を快適な状態に保つのが良いことだ」という価値観を前提に話を進めています。「そんなもん我慢すればいい」という価値観の方にとっては、以下は全く役に立たない話になります。
価値観は人それぞれなので、それがその人の判断ならば我慢するのもまた良しとは思いますが、私は嫌です。


 

1.自然の力を採り入れること自体は正しいが‥‥

夏なら日射を遮り、冬なら日射を取り込むといった工夫は正しいことです。しかしこれが多くの場合、イマイチな断熱性能をカモフラージュするための主張として使われていることに問題があります。
ちょっと考えれば分かることですが、採り入れた自然の力を逃がさずに室内に留めておくためには、高い断熱性と気密性が不可欠です。折角の「自然の力」が、採り入れたそばから逃げていくようでは元も子もないからです。
しかるに、この謳い文句を使うハウスメーカの商品はQ値が2.0~2.7程度と、今時の水準として見ればイマイチな断熱性しかもっていません。これでは低い性能をごまかすための言い逃れと思わざるを得ません。
本来であれば、一条工務店スウェーデンハウスのような、極めて高い断熱性・気密性を持っている住宅でこそ、「自然の力を採り入れる」と主張できるはずなのですが、少なくとも一条工務店はそういう方向のアピールをしていません(スウェーデンハウスは行ったこと無いので分かりません)。
一方で例えばこれ(2020/04/27注:リンク切れ)は、Q値1.0の高断熱住宅にダイレクトゲイン(日射を採り入れて室内を暖めること)を組み合わせ、山形県酒田市でありながら、冬の暖房費がごく僅かしか要らない家を実現した例です。自然の力を採り入れるとは、こういう事例でしょう。
現状は非常にちぐはぐな気がします。

2.家の作りやうは、冬をむねとすべし

古の偉人に逆らう様で畏れ多いのですが、正しい事は正しいので仕方有りません。現代の家は冬を基本に作るべきです。

2010/08/27追記
ここから暫くの段落は、「兼好が徒然草で言いたかったことを誤解して書いている」との指摘をコメントで頂きました。
私は文学は専門外なので事実関係については分かりませんが、そこを争点にするつもりはないので当該箇所を削除することにしました。単純に削除すると元々何を書いていたのか分からなくなるため、取消線で見せ消ししてあります。

最初に私が書いたのは、「兼好は夏を重視すべきと言っているが、これは現代には当てはまらない。現代は冬を重視すべきだ」という主張でした。
ご指摘いただいたコメントを踏まえると、「兼好は夏を重視すべきと言っているが、これは逆説的に言っているだけで、本心は冬重視だった。現代でも同様に冬を重視すべきだ」という主張に変更することになりそうです。
兼好が私と反対意見かそれとも賛成意見かという部分が変わっただけで、私自身の主張は変わっていません。

じゃあ吉田兼好は間違っていたのかというと、さにあらず。生きた時代を踏まえれば、兼好の主張もまた正しいのです。

では、兼好が生きた時代と現代とで何が違うのかというと、兼好の時代にはクーラーが無かったのです。
兼好は徒然草の第五十五段でこう書いています。

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比、わろき住居は堪へがたき事なり。

「冬はどこにでも住めるからいいけど、夏の暑さは耐えられない。だから家は夏に過ごしやすいことを重視しないとね」という主張です。

クーラーが無かった兼好の時代、夏の暑さをしのぐ方法は限られていました。薄着といっても限界がありますから、できることと言えば庇で日差しを遮るとか、木を植えて蒸散による気温低下を促すとか、打ち水をするとか、風通しを良くすると言ったことくらいしかありません。つまり、家の作り方による工夫くらいしかやれることがなかったのです。
一方の冬は、囲炉裏や火鉢で暖を取るという、積極的な暖房手段が当時から存在していました。

家の作り方で工夫するしかない夏と、積極的に暖房が可能な冬。どちらを優先して家造りをするかは、考えるまでもないでしょう。
兼好の時代には「夏をむねとすべし」で正しかったのです。

翻って現代は、暖房も冷房も容易に可能です。しかも、高断熱・高気密によって、夏と冬の快適性を二者択一ではなく両立できるようになりました。
となれば、判断根拠も兼好の時代とは自ずと異なってきます。快適性を得る難易度が夏も冬もあまり変わらないとなれば、快適性を得るための費用(つまり空調費)が多い方に合わせて住宅を作るべきです。つまり、日本においては「冬をむねとすべし」なのです。(沖縄だけが例外。)

鹿児島の平均気温を見ると、一番暑いのは8月で28.2℃、一番寒いのは1月で8.3℃です。夏は冷房で2~3℃下げれば十分快適になりますが、冬は10℃上げても未だ足りないくらいです。鹿児島でさえ、暖房の負担は冷房の4~5倍になるわけです。
実際には住んでいる人間の体温から出る熱や、調理、照明器具、家電機器などから出る熱によってこの差は縮まりますが、逆転することはないでしょう。(私の家でも、冬の暖房費の方が圧倒的に多いです。)

ハウスメーカのエンジニアともあろう人たちが、この程度のことを知らないはずはないのですが、受験勉強で何度も読まされた徒然草の説得力が絶大なためかどうか、未だに「夏をむねとすべし」との主張が絶えません。
昔の偉人の言葉をよく考えもせずに鵜呑みにすると、困った家ができてしまいますよ。