自宅新築日記

自宅の新築にまつわるあれこれを綴っていくつもりです。

科学的な態度とは

住宅とは直接関係ないんですが、ちょっと気になることがあったので、いいきっかけと思って書きます。
始めに断っておきますが、今回の内容は受け売りです。

 

1.疑似科学とは?

皆さんは、疑似科学とか似非科学という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 一見科学的な態度で主張されるもっともらしい内容だが、実は根拠がかなり胡散臭いもの、というくらいの意味です。(良ければWikipediaの記述も参考に。)
こういった疑似科学と本当の科学との違いは何だと思いますか?
「科学は正しいけど疑似科学は間違っている」でしょうか?

 

2.科学だって常に正しいとは限らない

科学史の中には、科学者が大まじめに主張していたけど、結果的に間違いであることが証明された事柄が山ほどあります。有名なところで言えば、天動説なんてのは千年以上もの長きにわたって正しいと信じられていましたが、結果的には間違いでした。となると、現在正しいと考えられている科学的理論の中にも、将来、「実は間違っていた」と証明されるものがあるかもしれません。
では、今現在は正しいと考えられているその理論(=もしかしたら将来間違いだと証明されるかも知れない理論)を正しいと主張するのは疑似科学になるのかというと、ほとんどの人は、「いや、そう言うわけじゃないよ」という感覚を持つでしょう。
そう考えてみると、正しいか間違っているかは、科学と疑似科学を区別する手段にはならないようです。

とは言え、それらの「残念ながら結果的に間違っていた理論」と疑似科学の間には、どうにも埋めがたい溝があるような気がします。
その違いは何でしょうか?

 

3.科学は正しいことを証明できるけど疑似科学は証明できない‥‥かな?
「証明」というのは、一般の方が科学に対して抱いている、「これこそ科学の神髄」というものではないでしょうか。
「そうそう。科学的理論は証明されてるじゃん。疑似科学は証明できないからね」とか何とか。


残念ながら、科学の証明は数学の証明と違って、全く隙のないものではありません。と言うか、隙だらけです。なので、何年も後になってから、「実は間違いだったことが分かりました」なんてことが出てくるのです。天動説もこのパターンでした。
では、科学で言う証明って何なのかというと、いくら実験しても理論を否定する結果が出ないという事実を根拠に、正しいと証明されたことにしているだけなのです。有り体に言えば、「これだけ実験して理論通りの結果しか出ないんだから、その理論は正しいと思っていいんじゃないの?」という話です。だから、もしも明日、「理論と違う実験結果が出ました!」となれば、あっという間に「間違い理論」の烙印を押されてしまうのです。(勿論、実験が正しく行われたのか? などはチェックされますが。)

科学の証明がその程度のものだとすると、同じ考え方で疑似科学の理論も証明することができます。
例えば、思いが強ければ願いは必ず叶う、という理論はどうでしょう。疑似科学と言うよりは哲学に近い気もしますが、この際気にしないで下さい。これは証明できるでしょうか?

世の中で自分の夢を成し遂げた人を見て下さい。みんな、強い思いを持って物事に打ち込んでいますよね。どうやら願いを叶えた人は全て、理論通りの結果になっているようです。
では、夢敗れた人はどうでしょうか? え? 俺は強い思いを持って取り組んでいたけど叶わなかった? それは思いがまだまだ弱かったんですよ。その分野で成功している人を見てください。あなたよりももっと強い思いを持っていたはずです。あなたは「強い思いを持っていたけど叶わなかった」んじゃなくて、「思いが弱かったから叶わなかった」んです。
ふう。どうやら、願いが叶わなかった人についても、全員、理論通りの結果だったようです。
と言うわけで、めでたく、「思いが強ければ願いは必ず叶う」という理論の正しいことが証明されました。

え? こんな証明はインチキだ?
確かにこの証明には胡散臭さが漂いますね。しかし、「いくらやっても理論通りの結果しか出ない」という以外には証明の方法が無いのですから、その手順に従っている以上、いくら胡散臭くてもこの証明を受け入れないわけにはいきません。

と言うわけで、「正しいと証明できるかどうか」は科学と疑似科学を切り分ける決定打とはならないようです。

4.違いは「間違っていると証明する方法の有無」にあり

私が見聞きした中で、「おぉ、確かにそれこそが科学と疑似科学を分ける決定的な理由に違いない」と思えたのがこれです。
それはその理論が『間違っていると証明する方法』があるかどうかです。
反証可能性と言います。
正しいと証明する方法ではありません。間違っていると証明する方法です。

何の事やらこんがらがってよく分からない? つまりこういう事です。
Aさんがある理論を唱えていたとします。

あなた : Aさんの理論に依れば、○○という実験をしたら△△という結果が出るはずです。
      私がその実験をして、もしも違う結果が出たら、Aさんは自分の理論が
      間違いだったと認めますね?
Aさん  : 勿論、認めますよ。
 
という会話が成り立つなら、Aさんの理論は科学的理論であるし、Aさんの態度は科学的態度だというわけです。

こういう性質を持った理論であれば、誰もが「間違いだと証明してやる」と意気込んで実験をすることができます。その結果、本当に間違いだったことが分かる場合もありますが、その場合も「科学的な態度に基づく科学的な(しかし残念ながら間違っていた)理論だった」と言えます。
逆に、大勢の実験結果が全て△△であれば、「どうやら正しいと認めざるを得ないようだ」となり、前章で述べた様に正しさが証明されたと見なされるようになります。
間違いを証明できる可能性があるからこそ、正しさが揺るぎないものになると言う、ちょっと逆説的な話です。実際に、世の中で正しいと信じられている理論は全て、大勢からの「間違いだと証明してやる」という挑戦を受け、その全てをはね返してきたからこそ、多くの人から信じられる存在になっているのです。

では先ほどの、思いが強ければ願いは必ず叶う、と言う理論はどうでしょうか?
実はこの理論は、間違っていると証明する方法がありません。先ほども書いた通り、願いが叶った事例に対しては「思いが強かったから叶いましたね」と言い、叶わなかった事例に対しては「思いの強さが足りなかったんですよ」と言うだけなので、どういう事例を持ってきても理論が正しいことを裏付ける証拠になってしまいます。この理論を主張する人は、「思いが強くても叶わなかった人を連れてきて下さい。そうすれば間違いだと認めますよ」と言うかも知れませんが、実際にそんな人を連れて行ったら、「その人はまだまだ思いの強さが足りなかったんですよ」と言うに決まっています。
なので、この理論は間違っていると証明する方法が無いのです。
私達が脊髄反射的に感じる胡散臭さは、この「反論の余地が無いこと」に起因していると考えて良いでしょう。
ある人がこんな理論を唱えていたとしたらどうでしょうか。
  • ここに『思いの強さ』を測る測定器がある。
  • かくかくしかじかの原理で、人の思いの強さを測る仕組みだ。思いが強いほど数値が大きくなる。
  • この測定器で『思いの強さ』が100以上の値を示している場合、その願いは必ず叶う。
これも「思いが強ければ願いは必ず叶う」系の理論ですが、最初に出てきたものと違い、この理論は科学的だと言って良いでしょう。何よりも、『思いの強さが100以上で、でも願いが叶わなかった人』を見つければ、間違いであることが証明できるのですから。
他にも、「かくかくしかじかの原理で人の思いの強さを測る」という部分にも、「その原理では人の思いの強さは測れない」といった突っ込みの余地がありそうです。
とにかく、反論の余地があるかどうかが科学的であるかどうかの分水嶺というわけです。


5.科学的かどうかと、正しいかどうかは別
これは取り違えてはいけないのですが、科学的であるかどうかと、正しいかどうかは全く別の問題です。
天動説のように、科学的ではあったけれど間違っていた理論もありますし、疑似科学だけど正しい(と言うか、間違っていると証明できない)理論も有ります。前述の「思いが強ければ願いは必ず叶う」もその1つです。

では、こんな理論はどうでしょう。
  • 人間が生きていくには、「ショッパイーノ」という精神エネルギーが不可欠である。
  • 塩にはこの「ショッパイーノ」が豊富に含まれている。
  • だから塩は人間が生きていくのに不可欠である。
  • 但し「ショッパイーノ」はあまりに強いエネルギーなので、一度に大量に体内に入れると身体が耐えられなくて死んでしまう。
  • だから塩を一度に大量に摂取すると人間は死んでしまう。

この理論で反証可能なのは、「人間が生きるには塩が不可欠である」という部分と、「塩を一度に大量に摂取すると死ぬ」という部分だけです。この結論部分の正しさを疑う人はいないでしょう。何故誰もが信じるのかというと、反証可能性があって、反証しようとした人が大勢いて、それでも反証できなかった、という事実に支えられているからです。
しかし肝心の「ショッパイーノ」については、胡散臭さ全開です。反証不可能ですから、「間違ってない以上、正しいハズだ」式に考えれば、正しいことになってしまいます。


世の中で唱えられている疑似科学の中には、この例の様に「部分的に反証可能な理論を組み込んでいる」ものもあります。その結果、「途中の一部分だけは科学的な手法に即している」とか、「結論部分だけは正しい」といったものが結構あります。
だからと言って理論全体が科学的なものであるかどうか、更には
その理論が正しいかどうかは、全く別問題なのですね。

6.おまけ

と言うわけで、科学というのは反論の余地があるかどうかという性質を拠り所にしています。逆に言うと、そう言う性質を持った物事しか扱えないのが、科学という学問の本質的な限界です。
科学が万能でないというのは、まさにこの点を指摘していると言えそうです。
まあ、科学は扱う対象を絞ることで成果を上げてきたんですから、仕方がないんですけどね。

-更におまけ-
大変面白い、かつ分かり易いウェブ・サイトを見つけたのでリンクを張っておきます。
著者は「生化学で飯を食っている」そうですが、同時に「オカルトに恋してる」そうで、オカルト主義でも科学原理主義でもない中庸なその姿勢は、好感が持てると共に大変勉強になります。特にオッカムの剃刀の話は、恥ずかしながらここを読んで初めて知りました。
私の駄文などを読んでいるよりは余程為になります。皆さん、下記のリンク先を読みましょう。

「科学的」とはどういう事か
科学が万能ではないわけ
科学のルール
(2020/04/19:残念ながら全てリンク切れ)